有沢螢歌集『ありすの杜へ』を読む会に寄せて

1月22日、有沢螢さんの第三歌集『ありすの杜へ』を読む会が、白の会のメンバーを中心として行われました。人数制限のある会場だったので、少人数のクローズドの会とせざるをえなかったようですが、有意義なものになったと聞いています。

僕も白の会のメンバーとして、喜びの言葉をお送りしました。歌集の紹介にもなるでしょうから、アップします。

  有沢螢歌集『ありすの杜へ』を読む会に寄せて   黒瀬珂瀾

 有沢螢さんへ。

 本日は、第三歌集『ありすの杜へ』を読む会が無事に開催され、喜びの気持ちをお送りしたく思います。本来ならば僕もこの場にいるべきながら、わが身の都合にてお伺い出来ません。しかし、江田浩司さん、石川美南さんがゲストスピーカーをおつとめくださると聞き、良き会になるだろうことを確信しました。さらには白の会の面々、論客の方々にもご参集いただき、歌仲間の一人として著者にかわりお礼を申し上げます。また、本日のセッティングにご助力いただいた方々も、まことにありがとうございました。

「介護」という現代の問題を通しての読解、作者の浪漫主義を通しての読解など、『ありすの杜へ』はもう様々な形で論評されていますが、本日もまた、この作品集の新たな側面に光が当てられることを期待します。有沢さんの歌の特徴としては、その華やかなユーモア精神にあると思うのですが、そのうえで僕は一読、

  退職の日にまつさきに捨つるべくキャンプ用軍手抽斗(ひきだし)にあり
  おびただしき細胞の死をかかへつつ働くために今朝を装ふ

といった、「生きる私=働く私」像の焦点の結び方に興味を覚えました。むろんこれは、学校という作者の職場、そして生徒像の描き方にも関わりのあることでしょう。

 この私像の捉え方はそのまま、

  ひかがみに人面瘡のあるごとし忍び笑ひのきこえ眠れず
  不完全燃焼の湯沸器のごと胸内の熾火いつかはわれを殺めむ
  わたくしの心のなかに泣いてゐる若紫よ雀を恋ふな

のような自己劇化の歌における、激しい感情を意志の力で抑えつけるところから滲み出る、悲痛な詩情にも繋がってゆきます。

  手術後のからだのうろに幾百の螢たまごを産みつけなむや
  捨てなむと籠おしあけて手にとればカナリアの卵かすかに温し
  死なうかと思ひし時にかかりたり虹を知らせる間違ひ電話

 僕はこの「卵」に、作者が己の生を振り返っての感慨を込めた象徴性を見ました。唐突に訪れてくる見えない「虹」もまた、この世界と《私》の、もう一つあったかもしれない関わり方を暗示する鍵でしょう。

  花火咲き散りにしのちに隕ちてくる闇の重さに母と寄りそふ

 生きること、働くこと、内省すること、過去と現在を見つめること、それらが本歌集では、母と《私》との関係性という点に収斂されてゆくような気配もあります。この花火の歌は、静寂の重みの中に人の生涯という時間への思いが託された、秀歌であると思います。

 もしあえて注文を付けるなら……。本歌集には人名を詠み込んだ歌が多く見受けられますが、おそらくその人物への思い入れが深いゆえでしょう、人名を詠み込むことが第一目的となっている歌が散見されました。もしかしたらこれは、人名に限らない有沢さんの傾向なのかもれません。この点、本日ご参加の皆さんがどのように読まれたのか、お伺いしたいところです。

 筆に任せていらぬことまで申し上げました。本日の会が有沢さんにとって、そしてご参集の皆さまにとって、有意義な時間でありますことを、遠くロンドンより祈念申し上げております。帰国しましたらまた改めて、本歌集についてお話したいものです。