ロンドン大学SOASにて特別講義を行いました

昨年2011年12月5日、ロンドン大学SOASにて、Japan studiesの学生さん達を対象とした、日本の現代短歌についての特別講義を行いました。The School of Oriental and African Studies(SOAS、東洋アフリカ研究学院)は、アジア・アフリカおよび中近東を対象とする、その類の中では世界最大の研究機関です。日本の政治・経済・言語・文化・芸術の研究も盛んで、専門研究所The Japan Research Centre(JRC)が設けられています。
http://www.soas.ac.uk/jrc/members/

今回の特別講義にあたっては、JRCのチェアマンであり、日本近代文学を専門とするスティーブン・ドッド先生と、日本古典文学を専門とするアラン・カミングス先生、および両先生をご紹介くださった国際交流基金のF氏にお世話になりました。当日はアラン先生による芭蕉についての授業ののち、お時間を頂き、僕の講義を行いました。

出席下さった学生さんは、予想を大幅に上回る40人くらい? イギリス人の学生さんが中心で人種はさまざま。男女比はほぼ同等。東欧や中国からの留学生さんもいました。

まずは学生さんに、短歌とは何か、短歌が俳句と並ぶ、日本文化の基本の一つであることを簡単にお話しました。日本の新聞には必ず、短歌のコーナーがあるということに、学生の皆さんは関心を抱いたようです。短歌は単なる詩ではなく、日記、メール、自らを励ます薬でもあり、短歌を作ることで自分の気持ちを他人と分かち合うことができる、という点も、短歌独特の特性であると受け止められたようです。

最近は一部の若い人の間で、ツイッターで短歌を呟くことも行われている、と言うと、笑い声が起きました。自分たちと身近に感じてもらえたのでしょうか。そして、色んなタイプの歌集(森岡貞香、やすたけまり、黒瀬など他)、同人誌やファンジン(鱧と水仙、早稲田短歌、[sai]、「99日目」、うたらば、うたつかい)、結社誌(未来、井泉)、総合誌(短歌研究)、自主製作本(石川美南、遠野サンフェイス)などを回覧し、日本では、誰でも詩人になれるということをお話しました。

そして、具体的な現代短歌の紹介に移りました。日本語と英訳のプリントを先に配り、ボードに日本語の短歌を書き出して、具体的な説明を加えてゆくという形を取りました。あくまでも日本語の短歌を中心にお話しました。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘

まず、日本語の短歌のリズムの、韻律の良さとはどのようなものか、それを感じてもらおうと思いました。この穂村弘の一首については、下句の形容詞の「い」音の繰り返しについて説明しました。そして、5・7・5・7・7が具体的にどのように区切られ、どう読まれるのかを解説しました。

都会に暮らす青年の孤独感、を読み取る学生が多かったです。「他の国に『象のうんこ』の詩があるでしょうか?」というと、学生さんも受けていました。

 ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。

次も穂村弘の歌をあげました。今度は学生さんに、二句目のシラブルがどこで切れるか尋ねてみました。何人かが声を掛け合って、「『な』の後ろで切れる」という答えを見つけ出してくれました。「noodle」という一つの単語が、句跨りによって二つに分かれている点も、見事に指摘してくれました。こういう技巧が面白がられている点を説明すると、驚いていたようです。

この歌も前の歌と同じく、都会に暮らす孤独な青年像を読みとる学生さんが多かったのですが、「霜柱」という小さな自然物への心寄せを読み取り、そこに自然と共にある日本人的な感性を見た学生さんもいました。

こちらの学生さんはカップヌードルを知らないかな、と思っていたのですが、みなさんご存じだったようです。「ロンドンで売ってるポットヌードルとは全然違うよね」というと、みんな笑っていました。Pot Noodleという良く似た商品がこちらではポピュラーですが、正直美味しくないです。

 観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)    栗木京子

現代短歌のマスターピースの一つとして、栗木京子の歌を紹介しました。ここで「相聞歌」という概念を紹介しました。今回の講義中には、積極的にボードを活用し、短歌だけでなく、色んな単語も漢字で書いて紹介したのですが、皆さん熱心にメモを取っていました。

この歌をめぐってクラスは、「私」がどこにいるのかの解釈で二つに分かれました。つまり、「私」は観覧車に今のっているのか、外から見上げているのか。そしてクラスでは、後者の方が優勢でした。僕は前者で解釈していたので、これは驚きでしたが、たしかにその解釈もありえます。「君」が乗っているのを見上げている、という解釈が多く、なるほど、「回れよ回れ」という命令形は、外から呼びかけているイメージを生むのかもしれません。

最初は「最初に乗った時は楽しく感じるけど、何度も乗ると飽きる」という意味だろうか、という解釈が出たのですが、ある女子学生から「これはデートのシーンだ」という発言が出ると、一気にいろんな学生さんから意見が寄せられました。さすがに具体的な恋愛については、なかなか思うところがあるようです。「君(you)」「我(I)」の性別は何か、という意見があり、男子学生は「我」は男、女子学生は女と感じたようですが、それは結論を出さなくていいということになりました。ただし、作者が女性であり、現代短歌は作者=歌の主人公、と読まれる傾向があるため、日本ではこの「我」は女性であると読まれることが多い、とだけ付け加えました。すると、「この男は次の日には別の女の子とデートするんだろう」という意見も出て、爆笑が起きました。

 違ふ世にあらば覇王となるはずの彼と僕とが観覧車にゐる 黒瀬珂瀾

観覧車つながりで拙歌も挙げました。どの歌も学生さんに朗読してもらっていたのですが、さっそく、「ゐる」は普通の平仮名ではない、という指摘がきました。「違ふ」もそうだ、これは古い書き方だ、と他の学生からの発言も。ここで旧かなについて簡単に説明し、日本人が伝統を大切にしている点、古い書き方を用いることで、過去の文化の蓄積とつながろうとしていることなどを話しました。

この歌がどういう意味なのか、みなさん解釈に苦しんだようですが、一種のパロディー、ジョーク的なニュアンスを読みとる学生さんが多かったようです。いきがっていたけれど、結局は何にもできなかった若者がしょんぼりしている、というシーンを思い浮かべたようです。さすがイングリッシュ・ジョークの国です。

「自分で言うのも恥ずかしいけれど、この歌には日本のアニメや漫画の影響がある」と言うと、みなさん笑っていました。日本のアニメファンはこちらにも結構いるようですが、学生の皆さんはどれくらい知っていたのかな。短歌はこういった風俗の流行や社会環境の変化をヴィヴィッドに描くことができ、それも人気の理由の一つであると説明すると、関心を持って下さったようです。

次に取り上げたのが、

 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ  塚本邦雄

でした。一目見て今までの歌と雰囲気が違うので、学生さん達も読むのに苦労したようです。「馬を洗はば」が「arahaba」ではなく「arawaba」だということを飲みこむのに、一瞬ギャップがあったようでした。その代わり、「戀」=「恋」であることは、明治時代の小説などを講読しているためでしょう、みなさんよくご存じでした。

この歌は日本の中世の美意識を下敷きにして、それを思い出させる言葉遣いをしている、と説明しました。そして、せっかく珍しい歌なので、と言って、朗読ではなく「朗詠」に近い形で僕が読みあげました。まったく予期できない読み方だったのでしょう、みんな驚いた顔をしていました。Japanese Ancient styleだと説明しましたが、どんな風に伝わったでしょうか。

ここでちょっと話を脱線させて、今でも皇居では毎年一月に新年を祝って、昔のスタイルで短歌を読む「歌会始」の儀式が開かれているんだよ、と解説しました。日本人にとって短歌は、書いたり読んだりする「詩」であるだけでなく、特別なセレモニー、儀礼の要素もあるんだと言うと、納得してもらえました。イギリスには桂冠詩人もいますので、イメージしやすかったかもしれません。

すると、学生から質問がきました。「さっきの朗読は特殊な技能が必要なように思うけど、それは普通の人もできるのですか? イギリスでは詩の朗読会はよく開かれていますが、日本では短歌の朗読会などは盛んなのですか?」。

よほど耳慣れない音だったようです。いや、誰でもできるよ、ととりあえず笑って応えて、「僕個人の考えだから、反論もいっぱいあるだろうけれど」と断った上で、次のような話をしました。

日本の歌人には、短歌朗読に反発する人もいる。それは戦争中、短歌朗読が戦意発揚に用いられたことへの反省がある。例えば、カミカゼ・アタックの若者の中には、万葉集を携える者もいた……。だから戦後、短歌はいっぱい批判された。そこで歌人たちは一生懸命いろんなことをした。その中で、「耳で聞いて解る短歌」から抜け出ることで、短歌を戦後文学に育てようとした一面があった。でも、ここ十年くらい、短歌を声に出して読むことで、作者の肉声を作品に取り戻そうという動きが起こってきた。戦争の記憶を一度シャッフルして、短歌朗読を純粋に楽しもう、という若い歌人も増えたように思う。あくまでも僕個人の考えだけど……。学生さんの顔はみんな真剣で、歴史への関心の高さを思わせました。

そこで、「短歌を戦後文学に育てた」一人である塚本邦雄の経歴を紹介しました。僕もちょっと受け狙いで「塚本にはニックネームがいっぱいあって、例えば、言葉の魔術師、負数の王、短歌の魔王とか」なんて言ってみました。Magician of words, King of Negativities はともかく、Lucifer of Tanka はさすがに爆笑が起きました。でも、学生さんにとって一番の殺し文句だったのは「Yukio Mishimaが絶賛し、鍾愛していた」というフレーズでした。

さて、この歌はどんな意味かを学生さんに訊くと最初、「一度やりだしたことは最後までやり遂げろという教訓ではないか」という答えが返ってきました。なるほど。すると他の学生さんから「一種のオブセッションを表現した歌ではないか」という鋭い意見が。「ちょっと狂気を感じます」とも。

昔の侍や武士は馬をとても大切にしていたこと。だからこの歌には《戦に備える武士》のイメージがあること。そして武士には「衆道」の文化があったことを説明しました。学生さん曰く、「イギリスの騎士も馬を大切にしたから、馬を丁寧に洗うイメージはよくわかった」そうです。さすがに「衆道」は僕の英語力では説明できず、ここはアラン先生にお願いしました。どうやらこのクラスの学生さんは既に西鶴の『男色大鑑』などの基礎知識を持っているようです。すごい。だからこの歌の英訳では、「ひと」を「someone」ではなく試みに「him」と訳したと告げると、一部の女子学生の反応が妙によかったです。それはともかく、文語旧かなを使うことは単なる懐古趣味ではなく、日本古来の美意識を蘇らせることで、新しい詩情を求める創造的行為なのだと言うと、かなり納得してもらえたようです。

時間が無くなってきたので、最後の方はやや駆け足になりました。

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか 河野裕子

作者は非常に人気のあった歌人だが昨年亡くなられたこと、彼女に関する本が出版されたりテレビの特別番組が放送され、改めて注目されていること、を説明しました。「相聞歌」の代表作と目されている旨を告げたのですが、学生さんたちには(特に女子学生には)ちょっと違和感があったようです。「この主人公には主体性がないように思う」という意見が数多く呈されました。日本でもそういう意見を持つ人もいます、確かにちょっと古風だよね、と言うと、「これは幻想の女性像だ」という意見が。その一方で「ガサッという擬音語の使い方が面白い」、「落ち葉をすくうことが音で表されていて、動きが感じられる」という読みも。

 今夜どしゃぶりは屋根など突きぬけて俺の背中ではじけるべきだ  枡野浩一

この歌は一読、よくわかってもらえたようです。ある意味、英語の現代詩的でもあるようです。枡野浩一はテレビに出演したりコラムニストとしても活躍したり、穂村と並んで影響力の大きい歌人であり、現代のスポークンワーズしか使ってはいけないという厳しいルールを主張するラディカルな歌人であることを簡単に紹介しました。「一言で短歌といっても、想像していた以上にたくさんのスタイルがある」ことに驚いてもらえたようです。

あとの短歌は時間がないせいで、軽く読むだけに留まってしまい、ちょっと残念でした。

最後に、数人の学生さんから質問がありました。

問:短歌をやりたい人は、どうやって短歌のグループを見つけるのですか?

答:大きな書店には短歌の雑誌が置いてあるし、いろんな地域で短歌のグループが文化活動をしている。新聞や雑誌に投稿しているうちに、その選者に紹介されるということもある。それになりより、最近は各グループがホームページを持っているし、インターネットをみればいろんな歌人が活躍しているのがわかる。もちろん、グループに属さず、個人で活動する歌人もいっぱいいる。どういう風に短歌をやろうと、全く自由です。

問:短歌グループに入るには、試験があるのですか?

答:そんなものはまったくない。入りたい人は誰でも入れる。多くの人は、好きな歌人がいるグループに入るようだ。あとは、自宅の近くで歌会をやっているグループを選んで入る人も多い。

問:どうやって短歌の良い悪いを評価するのですか?

答:その答えは難しい。短歌の批評については、英語の詩の批評などとまったく同じだと思う。独特で詩的に面白いものが評価されるということは、世界のどこでも同じだと思う。ただ、短歌は短く、言葉の使い方の技術が必要なため、最低限の技法をマスターしているかどうか、という点での判定や指導が必要な場合がある。だから、短歌や俳句の世界には「師事」という概念があって、技術に熟達した歌人が初心者を指導するのも、グループの重要な役割である。もちろん個人で活動している人も大勢いる。

どうやら、「普通の人が日常的に詩を書く」ということに関心が集まったようです。普通の人が誰でも歌を紙面に載せることができる、そういう「場」が日本にある、ということを知ってもらえたのなら、幸いです。

以上で僕の講義は終了。今この現在も、数多くの個性的な歌人が、さまざまな歌をどんどん生みだしている。この現在進行形の「短歌」という詩形にちょっとでも興味を持ってもらえれば嬉しいと述べて、締めの挨拶としました。学生さんから拍手をいただき、嬉しかったです。貴重な機会を与えてくださった関係各位に御礼を述べつつ、ひとまず報告を終わります。長文をお読みくださり、ありがとうございました。


講義の際に配布した短歌の英訳は、こちらです。
http://d.hatena.ne.jp/karankurose/20120216/1329439596