「北大短歌」第三号

北海道大学短歌会発行の機関誌「北大短歌」第三号に、第二号掲載歌の歌評「「北大短歌」第二号評」を寄稿しました。お招きいただき、北大短歌の皆様にはお礼を申し上げます。

第三号は特集「短歌と性愛」。ほくたんメンバーの座談会や、短歌と性愛表現について論じた、山田航さん、三上春海さん、内藤瑳紀さんの評論、顧問の阿部嘉昭さんの大辻隆弘論など、盛りだくさんです。参加者それぞれの短歌作品も、実に活き活きとしていて、大きな収穫でしょう。ゲストの穂村弘さんへのメールインタビューや、北山あさひさんの15首など、一冊の完成度として高いものとなっています。数に限りがあるでしょうから、お早めのご購読を。

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なお、黒瀬の前号評において、手違いで、滝貴愛さんの歌に言及できませんでした。従いまして、以下を追記します。


 瞼閉じ広がる視界さ迷えば一本の木のごとくたちたり
 紙袋を無駄と知りつつ被るのは寂しきことの寂しさのため
                      滝貴愛「じゃがいも」
 寂寥感を詠む歌人は数多いが、滝の一連では寂寥感や日々の苛立ちが、日々の生活そのものと結びついて詠われるようだ。一首目は時田則雄の「獣医師のおまへと語る北方論樹はいつぽんでなければならぬ」と好対照で、時田の樹が自尊と自立の証なのに対して、滝の木は明日が見えずに茫然自失する若者の心である。闇の視界がまるで大地のように感じられるのは、「木」という素材の選び方もあるだろう。二首目も独特で、寂しさを寂しさとして抱き留めるためにナンセンスに走る、若者特有の心がある。ただ、「無駄と知りつつ」は歌には余計な言葉だろう。