けさのことば2 〜 皇甫冉

  山館 皇甫冉

 山館長寂寂
 閑雲朝夕來
 空庭復何有
 落日照青苔

山館長寂寂 → 意訳「ヤマカン演出の長門は寂しげでかわいいなあ」

突然、歌集『空庭』が届きました。
天野律子歌集『空庭』(平成11、雁書館刊)。同名の歌集があったのですね。偶然を嘉して、わざわざ贈ってくださいました。その後書きによると、書名は皇甫冉の詩句に拠った、と。
あー、漢詩とかには「空庭」って使われるだろうなーとは思ったけれど、スルーしてしまった。調べときゃよかったなー。その、件の詩句というのが、上記の「山館」という五言絶句。
皇甫冉(こうほぜん)、字は茂政、中唐の人。甘粛の産だが、丹陽を好んで移住。弟の皇甫曾も詩人。唐詩選に3篇あり。陸羽との交流でも知られる。
さて、自己流で書き下してみると、

 山館、長く寂々たり
 閑雲は朝夕に来る
 空庭、また何かある(あらん?)
 落日、青苔を照す

みたいな感じかなあ。勘で意訳すれば、

 山の館は長らく、寂々としたままで
 ただ、ゆったりと浮かぶ雲が朝夕に訪ねてくるにすぎない。
 庭はがらんとして、私以外に何もあるわけでなく、
 ただ、夕陽が青い苔を照らしている。

・・・・ほんとかな。信じないでね。なんだかヒキコモリのような内容だけど、かつてはこの隠士風の生活こそが、清流派だったわけでしょう。さらに、この絶句をふまえて会津八一が次のような歌を作っていたこともわかった。

 うらやま に くも ゆき かよふ ひろには の こけ の おもて に いりひ さしたり

これを読めば、まあ、僕の漢詩の読解も当らずとも遠からずかな、と。さて、聞いたところによると、ものの辞書では、南北朝時代の謝霊運の詩「齋中読書」の「虚館絶諍訟、空庭来鳥雀」という一節が「空庭」の初出とされているとのこと。この「絶」は、人が来るのは絶えた、という意味だろうから、やはり、誰もいない静寂を楽しむときのフレーズなのかな「空庭」は。それは「ひとりはいやだ」という文脈とは違うのかね。誰もが知ってる王維の「空山不見人、但聞人語響」も寂しさを強調してはいるが、人恋しいよーという思いは見受けられないし、まあ、漢詩の精神とはそういうもんかもしれない。

 独り視る幻として冬の庭いたくやさしき茸が開花す 天野律子『空庭』