100首選と枡野さん

石川美南さんとこの「ゴニン デ イッシュ」で知った岡本雅哉さんのブログ「なまじっか」の、2010年7月27日のエントリーにて、現代詩手帖の「短詩型新時代」特集号(2010年6月号)が取り上げられている。お読みくださったようで、参加者としても嬉しいです。 ただ、えっと、

ただ僕の印象だと、「ゼロ年代の短歌100選」に松木秀、宇都宮敦の短歌があって枡野浩一の短歌がないのは、大いに違和感がある。“ゼロ年代の”というくくりの中で、枡野さんの短歌を挙げないということは、政治的ななにかを感じてしまう

という事なんですけれど、ちょっと困りました。

僕としては枡野さんの歌、入れたかった。枡野さんの歌は好きだし、影響の大きさも実感してるし、『街角の歌』にも枡野さんの歌を選んだし。

でも、枡野さんの歌集『てのりくじら』、『ドレミふぁんくしょんドロップ』、『ますの。』は、実際はゼロ年代の刊行ではないんです。今回の100首選は、「基本的にゼロ年代に刊行された歌集から引用」というルールが与えられていて。『ハッピーロンリーウォーリーソング』、『57577 Go city, go city, city!』も、上記3冊の文庫化のため、対象から外れます…。

エッセイとか映画批評とか他の著作とあわせて発表された歌はあるけど、それを引いて枡野さんの代表歌とするのはためらわれました。「短歌ヴァーサス創刊号」に発表された一連「愛について」からは選びづらいものがありました。なんとか抜け道ないかなと、色々考えたんですが結局、ルール上、枡野さんの歌を100首に含めることができませんでした。

もしかしたら僕の知らない秀歌が単独で発表されているのかも知れず、それを調べ切れなかった僕の「努力不足、勉強不足」があるかもしれません。そうだったのかもと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。でも、「政治的ななにか」のせいで入れなかったといわれると、ちょっと困ります。

座談会では枡野さんの影響について少しは言及できましたが、もっと追究すべきだったかもしれません。でも、なんというか、場の流れというものもあり、僕の力量不足ではありました。

以上のことはともかく、こういう100首選、誰が選んでも大いに偏るもんだから、いろんな批判があって当然です。でも、できればその偏りの原因は「政治的ななにか」ではなくて、「黒瀬の短歌観」にあるんだと考えてもらえればな、と。 そもそも、「政治的ななにか」をやっても、僕は何の得るものもありません。

まあ、100首選ぶの、大変だったです。