曇天の下や吾子の歯生え初むる

おとつい7日深夜、原稿のために夜更かししていると、夜中の授乳をしていた妻が、「かよちゃんに歯が生えた!」と。わあ、と思って見てみるけれど、暗くてよくわからない。たしかにこの頃、歯ぐきの中に硬い物を感じるようになってきたけれど。

それで翌8日の日中、娘の口の中を覗いてみる。ああ、なるほど、たしかに、ピンクの歯ぐきに、うっすらと白いものが浮かんでいる。生えてきたというよりむしろ、歯ぐきの表面の粘膜から歯が透けて見える、といった状態かもしれない。でも、ああ、歯が生えてきたんだなあ、と万感の思い。

とはいえあれですね、赤ちゃんの口の中って、全然見えないですよね。舌もあるし、唇めくっても大人しく見せてくれないし。

  万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

で当然、草田男を思い出すわけですが、この句、歯、見えてるんでしょうか。

やはりポイントは「生え初むる」でしょう。「生えにけり」でも「生えゆけり」でも「生えそろふ」でもない。この「初むる」ってのがまさに、〈歯が生えてきた〉という、最初の最初の最初の驚きを感じさせる。

つまり、「生え初むる」は「生え出せり」よりももっと前の時間を指しているように思う。「生え初むる」の歯はまだ生えていなくて、まさに今の娘の歯のように、歯ぐきの中で「これから生えますよ!」とうずうずしている歯を指しているんじゃないだろうか。で、そういう歯を感知するのは視覚ではなく、どちらかというと触覚だろう。子の口に指を入れた時に、硬いものに触れる感覚。もしくは、母親の乳首の感覚でもいい。

まあともかく、「生え初むる」の歯は、視覚では感知しにくいもののように思う。一方、「生え出せり」の歯は、視覚で感知できる歯だろう。そう思うと、かの草田男の一句は、触覚を内包した句のように解釈できる。

この句の読解では、万緑の「緑」と歯の「白」の色彩の対象の鮮やかさについて言及されることが多いけど、本当にそうだろうか。もちろん、句中の言葉自体により喚起される色彩イメージの鮮やかさは堪能できる。でも、そのコントラストは写生的、実景的に理解されるべきものではない気がする。どちらかと言えば、「吾子」の存在感、その吾子を感知する主体の皮膚感覚に重きが置かれた句であって、そう考えると、主体は「万緑」も皮膚感覚で受容しているように思われてくる。だとすると、けっこう感覚的というか、ちょっと抽象性が強く感じられもしますよね。

人間探求派の草田男らしい「生命万歳!!」の句、だけれど、実景だけでもない、感覚だけでもない。その中庸にいて、全方向に生命賛歌をあげている、そんな風にも読めてくるような?